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私が 感動した 戦争秘話その4 です。








      八原博通陸軍大佐の戦さ

          沖縄戦 



         以下   ねずさんのひとりごと  サイトからです。



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その沖縄に関連することで、今日は八原博通(やはらひろみち)陸軍大佐のことを書いてみようと思います。

大東亜戦争における沖縄戦といえば、昭和20(1945)年3月26日から6月23日にかけて行われた大規模な戦闘です。

日本の守備隊11万6400名に対し、米軍が投じた兵力は54万8000人。

日本の5倍の戦力に加えて、米軍の使用した銃弾の数は270万発、砲弾が6万発、手榴弾39万発、機関銃弾3000万発です。
(ちなみに先日、中共政府が、支那国内に旧日本軍の砲弾が200万発埋まっていると主張しており、日本にその砲弾の撤去を求めているというお話を書きましたが、あの沖縄戦で米軍が雨あられのように降らせた砲弾ですら、6万発なのです。もし当時日本が200万発もの砲弾を持っていたなら、日本は戦争に楽勝していた!)

まさに圧倒的な火力の前に散華された日本の将兵は9万4000名、民間人も同じく9万4000名がお亡くなりになりました。



沖縄戦については、当時、米軍の従軍記者の戦況報道に、次のような一文があります。

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現在少将ホッジ麾下の第24兵団の進撃速度は一日2百メートルにとどまり、7日頃からは、日夜日本軍重砲兵の猛射を浴びて苦戦の連続だ。

8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、戦車5台を先頭に突入、地雷原を突破前進したが、日本軍は焼夷弾をもって戦車を攻撃、さらに銃剣をきらめかせて突撃を開始した。

この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、同高地を放棄しなければならなかった。

牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には日本軍の一連の陣地がある。
欧州戦の体験者はこれを評して、巧緻かつ構想豊かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に組織されていると慨嘆した。
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なにやら一方的に日本側守備隊がやりこめられたかのような印象操作がされている沖縄戦ですが、沖縄の守備隊は、実に巧妙かつ勇敢に、圧倒的な火力を持つ米軍と闘ったのです。

そのため、日本軍の頑強な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。

そして日本の軍人さんたちが、あまりに近距離での激戦を挑むことで、米軍では沖縄戦全体で2万6000人もの兵士が、戦闘神経症にかかって戦列を離れています。
それが、事実なのです。

さらに地上での激戦のために、米海軍の機動部隊は、上陸軍の補給と支援、およびその補給艦隊の援護のために、沖縄近海に密集して長く留まらざるを得ず、そこには相次ぐ特攻隊による攻撃が加えられています。

4月1日から6月22日まで、82日続いた沖縄戦に、本土からは約1900機の特攻機が出撃し、米軍の軍艦34隻を沈没させ、空母、戦艦368隻に重大な損傷を与えた。

そのため、沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に、

「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。
5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官の更迭を求める」と、
極めて異例の厳しい申し入れをしたことが記録されています。


特攻攻撃が、最近の「学者もどき」が語るように、意味のない「犬死」だったとするなら、このニミッツの言葉は、いったいどのように解釈したら良いのでしょうか。

そして、ニミッツに言われた側・・・つまり、そのバックナー陸軍中将も、沖縄摩文仁(まぶに)高地での戦闘の最中、日本軍の砲弾を受けて亡くなっています。
このバックナー陸軍中将の最後については、ああ、やはり日本人なのだなあと思わせる、ものすごい物語がありますが、それについては、また別項で述べたいと思います。

摩文仁高地というのは、沖縄戦の日本軍最高司令部があったところです。
そしてここでの戦いは、もはや軍としての体をなしていないほどに、痛めつけられた日本守備隊が、最後の抵抗戦をしていたところです。
そこで、敵将を倒しているのです。

米国の軍史上で、司令官クラスの戦死者は、このバックナー中将が初めてのできごとです。
全米世論は騒然となった。

米陸軍戦史は、沖縄戦について、次のように記しています。

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沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった。
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沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、今日、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

八原博通大佐は、鳥取県米子市で、明治35(1902)年、町役場の公務員の子として生まれています。

彼は、地元の米子中学校(現米子東高校)を卒業したあと、大正12(1923)年、陸軍士官学校を卒業し、最年少で陸軍大学校に入校。
昭和4(1929)年に優等(五位)で卒業し、恩賜の軍刀を拝領しています。

そしてその年に陸軍省に入省した八原は、昭和8(1933)年から昭和10年まで、約2年、米国陸軍の隊附士官として米国に駐在しています。

いわば陸軍きっての米国通だったわけです。

そして大東亜戦争がはじまると、第十五軍参謀としてビルマ攻略作戦を担当し、大勝利を飾った後、昭和19(1944)年3月、沖縄防衛を担う第三二軍の作戦担当の高級参謀に就任しています。

そして彼は、第三二軍の司令官であった牛島満中将を補佐し、米軍の来襲に備えて、沖縄県民の本土への疎開と、軍による沖縄持久戦を提案します。

米国通の八原は、沖縄の珊瑚に囲まれた地形や、そこここにある洞窟を利用し、最初から長期持久戦を行うことによって、米軍に長く大量の出血を強いることで、必ずや米国内に厭戦気分が起き、和平上、日本の立場を有利にできると考え、これを第三二軍の方針とします。

ところが、沖縄戦の前に沖縄県知事だった泉守紀は、これを承認しない。
沖縄県民の本土への疎開を拒否するのです。

当時、沖縄の空に度々来襲する敵爆撃機の空爆に恐怖した泉知事は、沖縄県民の命を盾にして、自分だけが沖縄県知事の任を解かれ、本土に復帰できるよう工作をしていたのです。
当時の県知事は、いまのような各地での公選制ではなく、中央からの派遣です。

自分が本土に逃げたいだけの平和主義者泉守紀は、軍の方針にことごとく盾つき、ついには沖縄県民の疎開すら拒否してしまったのです。
(このお話は
≪沖縄の二人の知事、泉守紀と島田叡 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-809.html≫に詳述させていただきました)

しかも、大本営は敵情判断の中で、米軍は沖縄より先に台湾への侵攻を図ると考え、第三二軍から、主力の一個師団を台湾に引き抜いてしまいます。

かくなるうえは、残る兵力と、逆に民間人の協力をもって、沖縄を守るしかない。
本来は、戦場に訓練されていない民間人がいたら、軍の行動には足手まといなのです。

しかし、疎開できないならできないで、逆に協力をお願いするしかない。
これは当然の、自然な判断ですし、当時、沖縄の人々は、むしろ積極的にこれに呼応しています。

あたりまえです。
誰だって、いざとなったら女房子供を守りたい。
そのためにできる協力は惜しまない。

八原参謀は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させた後、島に残った民間人を戦闘地から外れた島北部に疎開させたうえで、青壮年男子2万人を動員して、島内での陣地構築を進めます。
これが、珊瑚を利用した、地下壕になります。

昭和20(1945)年4月1日、米軍の上陸部隊が沖縄本島中部の渡久地海岸に来襲します。

戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、砲艦117という、気の遠くなるような大艦隊です。

そしてその日のうちに、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発という、史上かつてない猛砲撃を加えます。

艦砲弾というのは、ひとことで言ったらドラム缶を縦に三本積み上げたくらいの、どでかい爆弾です。
そんなものを、雨あられのように、沖縄本土に降らせたわけです。

事前の猛爆撃のあと、午前8時には千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到しました。
幅、わずか11キロの海岸に、4個師団(約6万人ほど)もの大兵力が一度に上陸したのです。
これだけの大がかりな上陸作戦は、さすがの米軍でも初めての経験です。

通常なら、ここで上陸をしようとする米軍と、日本の守備隊との間で、猛烈な戦闘が行われます。
硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を浴びて、米軍は大損害を被っている。
その記憶も新しい状況下での上陸作戦だったのです。

ところが、日本軍は何の抵抗もしない。
しーんと静まり帰っています。
弾の一発も飛んで来ない。

米軍は、「これはエイプリル・フールではないか」と、逆に疑ったそうです。
無血上陸を果たした米軍の将兵は、「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦術家か、そうでなければ、大馬鹿者である」と語り合った。

沖縄戦の作戦を立てたのは、八原大佐です。
彼は、地味だけれど、確実に成功する戦術を重視する戦術家です。

米軍をよく知る八原大佐は、沖縄に進攻する米軍の膨大な火力と、真正面からぶつかっても勝ち目がないことをよく知っていた。

兵力の違い、火力の違いから、いずれ日本軍は米軍に敗れる。
そのことも彼はよくわかっていた。

だから、勝つためには、少々かっこは悪いかもしれないが、穴に籠り、とにもかくにも持久戦を戦い続ける、米軍に多大な戦傷を負わせ続ける、そういう作戦を立てたのです。

そうすることで米国内世論は、必ず厭戦に動く。
米国をよく知る八原大佐ならではの作戦です。
硫黄島の栗林中将も、同じく米国派遣経験を持ち、同じ戦法をとっています。

沖縄本島は、南半分は分厚いサンゴの岩盤に覆われています。
そこには、たくさんの天然洞窟がある。
そこに地下壕陣地を作り、米軍に抵抗する。
正面衝突はしない。
あくまで持久戦(ゲリラ戦と言った方がわかりやすいかもしれない)に徹する。

それが八原大佐が建てた作戦です。

八原大佐の読みは的中します。
米軍の火力にものをいわせた猛爆にも、ぶ厚いサンゴの岩盤は、びくともしません。
沖縄守備隊の兵力は、この時点で完璧に温存されたのです。

そして上陸した米軍が、徐々に洞窟に近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を抱えた兵が、稜線や斜面に築かれた陣地に行き、そこから的確な射撃を加える。
その後ろからは、迫撃砲や臼砲で敵兵に集中砲火を浴びせる。

米軍は、日本兵からの銃撃を前にして次々と斃され、やむなく無線で海上の戦艦や航空部隊に応援を頼み、日本側の陣地に対して艦砲射撃や空爆を加えます。

ところが、その頃には、日本兵はとっくにひきあげている。
米軍は、無人となった場所に猛爆を加えるだけで、日本側に何の損傷も与えられない。
そしてふたたび進撃を開始すると、どこからともなく日本兵が現われて、米兵に対しピンポイントで銃撃を加える。

みるみるうちに米軍側に死傷者が続出します。
とにかく日本兵の銃撃は良く当たる。
しかも、驚くほど近くからの銃撃です。

戦闘というと、なんだか数時間からときにまる一日中、銃撃合戦が繰り広げられるようなイメージを持つ人が多いです。
しかし実際の個々の戦闘は、数分から十数分で終わる。
接近戦で1時間も撃ち合いが続くようなことは、近代戦ではまずありません。

銃弾の音がすれば、米兵が一瞬にしてバタバタと倒れる。
そして米兵が反撃に出る頃には、そこには日本兵は、もういない。

ちなみに、日本軍の装備は、三八式歩兵銃です。
軍における銃というのは、その国の軍に対する考え方をよく現します。

三八式歩兵銃は、古い銃で、軽機銃のような連射はできません。
しかし命中率が高く、殺傷力が高い。
弾が当たると、相手は確実に、あっという間に苦しまずに死にます。
武士の情けです。一発で相手を苦しまずに逝かせる。
これが三八式歩兵銃です。

これに対し、米軍が採用したM銃は、連射、速射ができます。
いちいち弾を込める必要がないから、相当有利です。
しかも、弾の貫通性が高いので、相手は大怪我をするだけで、一発では死にません。

少々コワイ話ですが、軍においては、味方が死んでくれた方が、負担が少ないのです。
なぜかというと、弾が当たって、大怪我をして、生きていたら、なんとかして助けなきゃなんない。
助けるためには、味方の兵が何人かで、怪我をしたものを後方に送ります。
その分、戦力が落ちるのです。

敵を苦しめ、戦力を削ぐことを目的とした銃と、苦しませずに確実に逝かせる銃。
どちらを採用するかは、その国の軍の考え方によるのです。

沖縄守備隊は、この、連射はできないけど、確実に逝かせる歩兵銃で、果敢に戦います。

おかげで、米軍の上陸から一週間、戦いはまるで幽霊との戦いであるかのように、米軍側に死傷者が続出し、日本側の損耗はほとんどない、という状況が続いた。

ところが、そうした八原参謀の作戦に転機が、むしろ内部から訪れます。

大本営から、軍司令部に、米軍の上陸を許したことを咎める電報がはいり、一方で豪傑肌の長勇中将からは、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出るべし、との強硬な意見が出されたのです。

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今の平和な世の中に感謝です。


ねずさん  勝手にリンク貼って ごめんなさい。













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