警神・増田敬太郎巡査
日清戦争が終わって下関条約が結ばれた明治28(1895)年のことです。
当時の日本は伝染病であるコレラが大流行していた。
佐賀県肥前町も例外ではなく、コレラが猛威を振るっていた。
町の駐在巡査は病気がちで、村人たちを助けることができず、県の警察本部に応援を求めていた。
県警察本部が、適任者の面接を行ない、知識もあって行動力もある25歳の増田敬太郎巡査を抜擢した。
増田敬太郎巡査は、熊本県泗水村出身の人で、警察官になる夢を抱いて佐賀県警察学校に入り、普通なら3ヵ月かかる警察官教習課程を、なんとわずか10日間で習得したという、優秀な青年巡査です。
人一倍正義感が強い増田巡査はすぐに引き受け、唐津から交通機関が何もない山道をたどり肥前町に向かった。
赴任した増田巡査は、さっそく区長たちとコレラ対策を立てた。
地元の人々は、コレラという伝染病への知識を持っていない。
増田巡査は先頭に立って患者の家をまわり、消毒を行い、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止した。
また、生水を飲んだり、生のままの魚介類を食べないよう指導して回った。
ところが増田巡査の懸命の努力とは裏腹に、すでに手遅れの患者が薬を飲んで亡くなったのをきっかけに、
「増田巡査が毒薬を飲ませている」という何の根拠もないうわさが広まった。
噂はあっという間に村々に広がり、治ると思われる症状の患者まで
「この薬は毒薬だから飲まない」といい出した。
増田巡査は村中を一軒一軒まわり、根気強く人々の誤解を解いていった。
しかし、伝染病とわかると、今度は病気が移ることを恐れた村人たちは、亡くなった人の遺体を運ぶことを拒むようになった。
増田巡査は、たった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬した。
患者への手厚い看病や予防活動に不眠不休で取り組む増田巡査の疲れも極限に達していた。
そしてコレラは疲れきった増田巡査の体にも容赦なく襲いかかった。
着任して3日目の午後、増田巡査は、とうとう倒れてしまいます。
「このようになっては、回復の見込みはないと覚悟しています。
しかし、村のコレラは私が全部背負っていきますから安心してください。
また、村人たちには、私が指導したように看病と予防をしっかりやるように伝えてください」
死の間際にこう遺言して、増田巡査は、帰らぬ人となった。
頼りにする巡査の悲報を聞いた村人たちは深い悲しみに暮れた。
増田巡査が警察官になって7日目、
村に来てわずか4日目のできごとだった。
それから100年。
地元の人々は、増田巡査をしのび、神社に碑文をたて、以来、毎年7月26日に近い日曜日に、警神となった増田巡査をしのび「増田神社夏祭り」を開催しています。
たった4日間恩を、いまに伝える日本。
私たちは、そうした善行を称える、歴史に刻む伝統ある日本を、大切に孫子に伝えていきたい。
大切な日本の歴史や伝統を、絶対に失うべきでない。
ねずきちには、そう思えました。
|